「北九州大学文学部紀要」(編集・発行:北九州大学文学部比較文化学科、1998年7月、56号、89−115頁)

(This Japanese article "Symbolism in Miyamoto's Doro no Kawa: the Metaphorical Opposition of Boats and Bridges" was originally published in Kitakyushu University Faculty of Humanities Journal,Vol.56,1998, pp.89-115.  The English abstract has been placed at the end of the paper.)

ダニエル・ストラック 北九州大学文学部比較文化学科

宮本輝の 『泥の河』 における象徴

――〈舟〉と〈橋〉の対立――

Symbolism in Miyamoto's Doro no Kawa――the Metaphorical Opposition of Boats and Bridges―― 

Humanities Department, Comparative Cultures Program, Daniel C. Strack

概要

本稿は宮本輝の『泥の河』における象徴、とりわけ〈舟〉と〈橋〉の隠喩的対立を論じるものである。〈橋〉は主に異界や対岸を結ぶものとして有効に機能し、その一方で〈舟〉は〈浮世パラダイム〉を表現し、〈接続〉と〈断続〉は隠喩上の対立的役割を果たすことを明らかにしたい。一葉の『たけくらべ』と荷風の『すみだ川』も歓楽街の子供たちの成長と、子供たち

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が見た周囲の世界を描写しているが、〈浮世パラダイム〉を仄めかすことによって作者は同様の古風な背景を現代的作品にもたらしているのである。〈浮世パラダイム〉は一葉と荷風に端を発するものではなく、長年伝えられてきた日本文学における伝統豊かな舞台である。本稿は、とりわけ〈橋〉の文学における象徴的使い方と解釈に関して、別稿の「宮本輝の『道頓堀川』研究:橋から洞察する人生」の〈川三部作〉研究を継続することを意図している。

小説の背景

『泥の河』は昭和30年(1955年)の大阪市に舞台が設定されている。舞台となる地域は作中に登場する大阪中央市場の近隣であって、福島区、北区、西区が隣接している場所に四つの川が西から東へ流れ、大阪湾に注ぐ。上流の川は堂島川と土佐堀川である。この二つの支流が西へ流れ、安治川で一つとなる。安治川は大阪湾まで直行するが、その合流地域が木津川の水源となる。木津川は南へ向かい、西区を貫流して『道頓堀川』で登場する同名の川と合流することにより、〈川三部作〉の第一と第三作の世界が一環となる。安治川周辺では四つの川が流れ、その極めて狭い流域に、五つの橋が設置されている。その中の端建蔵橋のたもとに、作中に登場する「やなぎ食堂」が位置している。男が橋の上で馬車に轢かれて亡くなった橋は船津橋である。「舟の家」の渡しが川端と接触する所は湊橋の付近である。上船津橋は物語の舞台としては登場しないが、その当時、湊橋と同様に橋の上を大阪市電が走っていた。1

『泥の河』の舞台となる地域は『道頓堀川』において登場する幸橋から北方向に、およそ一・五キロ離れたところにある。作者は物語のわずか数週間の出来事を、しかも家から遠く離れることの出来ない子供たちの視点から描いたからこそ、登場する舞台は少なく、比較的狭い川沿いの土地が描かれているのである。祭りの場面と最後に信雄が「舟の家」を追うシーン以外では、狭い五つの橋、四つの川がある近所のみが作品の舞台となっている。

『泥の河』は川の近くに住む二人の少年、板倉信雄と松本喜一の友情の成り行きを描いている。8歳の信雄は「やなぎ食堂」を経営する板倉晋平と板倉貞子の一人っ子であり、同年齢の喜一は、姉の銀子と売春婦の母と共に、湊橋のたもとに停泊している「舟の家」に暮らしている。

作品の冒頭では、信雄が一緒に「やなぎ食堂」で中年の男と話しているが、その直後に馬が上れないほどの橋の急な坂を、無理して登るようにたづなを引いた際に、誤って馬車に轢かれて亡くなるという極めて暗い場面で始まる。その後すぐに「舟の家」が登場し、作品の大半を占めるのは信雄と喜一の友情と、お互いの家族の関係に関する描写である。子供たちが初めて出会ってから大人たちはその友情を疑問視するが、途中から少年たちの無邪気な態度は大人の世界に影響を与える。しかし、結局、信雄は喜一の驚くべき本質を見抜くにつれて、彼の友情

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を一時的に拒むこととなる。最後の場面では、信雄が喜一の「舟の家」が去って行く様子を見て、別れを言うために舟を追うが、舟からの返事は来ない。ただし、泥の河の中には信雄と喜一のみが知っている巨大な「お化け鯉」が「舟の家」の後を泳いで行くのである。

この作品はいわゆる〈川三部作〉の第一作であるが、その三作品の舞台及び設定されている時期を、作者自身の少年、青年時代の経験と比較すると、殆ど共通であることが分かる。

『...こうした年譜との一致と食い違いが何を語るのかは、作品のなかに作者の実人生の反映を見るという私小説的な読解を許し、同時にそれをまったくの嘘構とするはぐらかしを準備している売文家の、不逞な顔を見ることもできようが、それ以上には今は詳論する必要もあるまい。』2

『泥の河』の場面と登場人物が作者自身の経験から直接描き出されたとまでは言われないが、作者の経験が作品執筆に大いに貢献していることは作者自身とのインタビューによって分かる。信雄と同様に安治川近隣の家に住み、部屋から川が見られる3といった作者の叙述に基いて、『泥の河』の舞台及び場面は、ある程度事実を反映しているという二瓶氏の見解に筆者は同意を示したい。

『泥の河』の象徴に関して

文学の中の象徴を解釈することは非常に困難である。ポストモダニズムの影響によって、批評家が色々な視点から作品を分析することによって、様々な解釈の可能性がある。しかし、あまりに作品を分析しすぎると文学の価値を失わせてしまう可能性があると思われる。むしろ作品の主な象徴、隠喩、パラダイム、トポスを理解することによって、優れた作品の奥深い謎を解くことが可能となる。作品において、こういった奥深い魅力がない限り、作品を研究する人はいないだろう。

普通、物語には幾つかの箇所で象徴が見つけられるが、多ければ、多いほど良いとは限らない。その隠喩の多さが文学的余韻の深さをもたらすと同時に、全体的構造が複雑になる程取り入れられている可能性も考えられる。『泥の河』の場合には、とりわけ作者が動物を隠喩的に利用するシーンは重苦しい場面が多い。この傾向に関して二瓶氏はこう述べている。

『少年の目から眺められた世界、現実認識のあり方が、馬や鯉や沙蚕、蟹、鳩の雛などの記号に仮託され、言葉によっては語り得ない幼さ、もどかしさをうまく伝えていた。生き物たちはこうした少年の心象風景を映し出しているが、このことを逆に言えば、禁欲的に主情を押え込もうとする作品の叙法が、多くのわざとらしい記号の背後に有り余る饒舌を隠していたと言うこともできようか。』4

重苦しい場面があると言っても、作中の隠喩化された動物は作品の裏面の緊密な動きを示す

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ために取り入れられているのみならず、プロットが展開してゆく場面にビジュアルな、具体的な刺激を与えることもあるだろう。動物の象徴的使用に関して、とりわけ〈橋〉との関連があるので、後で再び触れるが、この比較的短い作品では、動物が大いに利用されていることは事実である。

いうまでもないが、〈川三部作〉全体において最も象徴性に溢れているものは〈川〉である。〈川〉の象徴性に関して二瓶氏は以下の通り述べている。

『〈川〉とは、主人公たちがそのほとりに住む舞台の設定という意味だけでなく、その流れと時の流れとが対比的に捉えらていると言って構うまいが、もう少し事情は手が込んでいる。』5

〈川〉の象徴に関しては、確かにその通りである。〈川三部作〉では川が単なる舞台の設定に過ぎないということはありえない。

『三つの〈川〉、安治川、いたち川、道頓堀川は、すべて泥の川である。汚濁に満ちた悪臭漂う、殆ど流れのない澱んだ川であるが、なおかつそれは流れている。固着し、わだかまった時の記憶も、実はゆっくりとほぐれているのだ。』6

しかし、〈川三部作〉の登場人物の多くは水上に住んでいるのではなく、川辺で生活を送っている。ただし、『泥の河』で、ある一家は舟上に住んでいるという例外もあるが、〈川三部作〉全体を見ると、プロットの殆どが川の上の出来事ではなく、その近隣で展開していることが事実である。こういった意味で人間がどのように〈川〉と関わりを持つのかが、主に課題となっている。人間が〈川〉の水に直接触れる場面は非常に少ないからこそ、『泥の河』において登場する〈橋〉と〈舟〉は重要な役割を果たしていると考えられるのではないだろうか。本稿では、まず〈橋〉と〈舟〉の文学的意義やニュアンスの違いを考慮した上で、その二つのパラダイムがどう関わっているのかという問題に焦点をあてて、『泥の河』の人間関係を分析することを意図する。

〈舟〉と〈橋〉は隠喩的対立の形成のために設置されているのは本当だろうか。直観的にいえば〈舟〉と対立している概念があるとすれば、それは〈陸上〉の筈である。しかし、〈川三部作〉全体において、〈川〉=〈死〉であるとすれば、〈陸上〉はその反対の意味を持つ筈であろう。登場人物が〈川〉或いは〈死〉を眺めるとすれば、映されているのは〈陸上〉であり、〈川〉は〈陸上〉の無意識のうちに生きる人生7の本質まで洞察する鏡となる。この多義的な機能により〈川〉と〈陸上〉の対立的象徴性が表現されているのである。信雄が〈川〉の近辺に住んでいるからこそ、『泥の河』に反映された人生を新鮮な子供の視点から洞察することにより、読者は実人生の考察が可能になるのだろう。信雄は作品全体において〈川〉自体をしきりに眺めているが、〈川〉の「漂流物」である「舟の家」が〈川〉に属する人間のを表現している。

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では、〈舟〉と〈陸上〉が対立的に機能していなければ、一体どのように使用されているのだろうか。

四つの川が交錯する周辺の土地に住んでいる人々にとって、当然五つの橋は対岸に住居している人々との関わりを維持するための拠点となり、まさにその陸上に住んでいる子供たちにとっては、たむろする場所として利用されている。『泥の河』においてはこのことがとりわけ信雄についての描写から分かる。本稿において先ず議論する点は〈橋〉が人間同士の関係、繋がりつまり〈接続〉を表す建築物のシンボルとして機能していることである。〈舟〉は逆に〈無関係〉、〈断続〉を表現する象徴として活用されている。 無論、川上に設定されている〈舟〉に住んでいる人々にとっては〈陸上〉を結ぶ〈橋〉のようなものは存在する。「渡し」という仮の歩み板が川岸まで届くが、極めて臨時的なものである。「渡し」に込められた象徴性を考えるとすれば、本格的な〈橋〉と比較して、一時的に他人との交流を保つことさえ困難であることに気づく。陸上の『普通の家』8に住んでいる人々と比較すれば、〈舟〉に属する人々は友情などを強く要求しようとしても、結末として表面的な関係に過ぎない筈である。『泥の河』という物語は一貫して作者のこの解釈に基いている。喜一は〈陸上〉に属する信雄の〈橋のパラダイム〉を一時的に踏むが、〈舟の家〉には本格的な〈橋〉がないため他人との交流は必然的に破綻する。松本一家が〈舟〉に住んでいて「渡し」という〈橋〉のようなものを利用しているのは否定できないが、〈橋〉を利用する人間関係を具体化する〈接続パラダイム〉に対して〈舟〉は『漂流物』9の感覚で〈断続パラダイム〉を表現していることをあらためて確認したい。

 

〈橋〉の象徴性、異界同士を繋ぐ場所

『泥の河』登場する安治川流域の住人の日常生活に対して、〈橋〉は不可欠な貢献をしている。ある場所から目的地まで移動する際に橋を渡ったり、特定の場所に到達するための道の説明が、〈橋〉を中心になされたりしているからだ。〈川〉を舞台とする場面では、登場人物が日常生活において、橋や川を無視するか否かに関わらず、作者がその〈川〉と〈橋〉を物語の中心に置いていることは確実である。この〈橋〉が象徴する強固な人間関係の設定に、突然「舟の家」が登場してくる。対照的に描き分けるために、作者が作中で橋に関して明確に描くのは当然と思われる。

例えば砂漠に関する小説では、砂が登場するに違いない。従って〈川〉を舞台とする作品には〈橋〉が当然登場するだろう。問題は、作者が意図的に〈橋〉を取り入れたか否かという点であって、それについては作者の発言に基いて以外、判断を下す余地はないだろう。或いは作品の登場人物の世界についての考察において、川も橋も特に意識しないことさえ可能である。

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しかし、〈川〉の象徴が意図的に使用されているとするならば、〈橋〉の象徴性もそうではないかという点は問うべきだろう。〈川三部作〉では、作者自身が意識していたか否かに関わらず、特殊な意味が〈橋〉の象徴性に潜在していることが確実なことを明らかにしたい。

『泥の河』では〈橋〉が62回も描写されている。10 作中においては〈橋〉がどのように使用されているのかを以下の表によって、詳しく示したい。

表1.〈橋〉の件数 (名義別)

〈橋〉が取り上げられている件数:62

湊橋

15

小さな橋 (及び「渡し」)

昭和橋

12

浄正橋

名義不明の橋

10

淀屋橋

船津橋

歌島橋

端建蔵橋

堂島大橋

表2.〈橋〉における行動  表3.〈橋〉と関わる人物等

〈橋〉が取上げられている件数と、そこで行われている行動

 

件数

〈橋〉と関わる人物、

動物等

 

件数

歩いて渡る所

15

信雄 14

地名説明

10

地名説明 11

眺める所

信雄と喜一

釣りをする所

馬車曳きの男

「舟の家」の所

喜一

見送る所

舟の家

物が放置された所

やなぎ食堂

待つ所

釣り人

立ち止まる、佇む所

やました丸の老人

川へ向かって叫ぶ所

双子の兄弟

船がくぐる所

鳩の雛

目的地

 

 

 

板倉一家と姉弟

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重大な意味が文章の背後に潜んでいる場合、それを的確に抽出して理解することは困難である。〈川三部作〉においては、各作品の舞台設定及び登場人物が異なるため、〈橋〉に込められた象徴性が作品によって異なるのは当然だろう。しかし、統一性があるとすれば、それは〈川三部作〉全体、或いは作者のあらゆる作品における傾向を表すものではないだろうか。次に〈橋〉の隠喩的役割を具体的に説明するが、主に以下の通り、三つの項目に分けて議論したい:「@生と死の交流点」、「A〈自由〉と〈宿命〉のパラドックス」と「B異質なもの同士を結ぶ」。

 

@〈橋〉の象徴性:生と死の交流点

喜一は壊された馬車の鉄屑を取ろうとする際、少年たちの初対面の描写が最後に登場する関係の破綻の前触れとなっているように思われる。喜一の行為に対する信雄の怒りを示す場面であるが、喜一の盗難に見られる行動により、馬車曳きの男と松本一家の間に心理的な関係が生じてくる。11 周知の通り、柳田国男の研究によると、日本における〈橋〉は伝統的に境界として機能する傾向を持つが、「泥の河」の中においても正にその様な橋の機能が見出せるであろう。「すかみたいに死んだ」男が人生の舞台である〈陸上〉と死の〈川〉の境界、つまり〈生〉と〈死〉の交差点である〈橋〉の上で亡くなることにより、〈死の川〉の領域に足を踏み入れたとすれば、喜一の盗難は全く関係のない不幸な人のものを盗んでいるのではなく、彼が〈死の川〉の上に浮かんでいる舟に住み込んでいるため、当然彼に来る筈のものを救い出そうとしているように思われる。〈死んだ〉馬車曳きの男の鉄屑を確保しようとする喜一の現実的態度に対して、信雄は最近まで〈生きていた〉馬車曳きの男を思い出して、喜一の盗難を決して許さない。馬車曳きの男が「舟の家」にも『来よったわ』12という喜一の発言によって、まさに馬車曳きの男の死が「舟の家」と関連していないとは考えにくくなる。信雄と喜一が初めて出会う場面から子供同士の性格や環境が違うことは、この手法によって作者が明瞭に描写している。

「やました丸」の老人は『橋の上に並んだ釣り人』13のため、川底の泥にいる沙蚕を採ることにより、生計をたてている。〈死の川〉を利用して、生活費を得るのは〈川〉に対する侮辱であると思われるが、ともかく老人はある日、消息を消す。おそらく誤って川に落ちて亡くなったというのが世間の推測であるが、信雄が偶然、姿を消す直前に老人を見たため、巡査に質問された際に、お爺さんが『お化けみたいなでっかい鯉に、食べられてしもたわ』14と言ってしまう。〈川〉に飲まれたのか、「お化け鯉」に食べられたのか、二つの可能性が考えられる推測に関しては、落ちている所を見た人がいないため、結論は出ない。しかし、信雄の発言を書くことにより、作者の「わざとらしい」と見られる曖昧な表現上の工夫が、読者に対して両方の仮説が共に事実であるような印象を与えるだろう。やました丸の老人の「すかみたいな死に方」

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に焦点をあてると、〈死の川〉と〈お化け鯉〉の領域が少なくとも重なっていることが分かる。

「お化け鯉」の初登場は、馬車曳きの男が亡くなったシーンの直後であるのみならず、〈舟の家〉が初めて登場する場面と同時であることは興味深い関連性を示している。その「お化け鯉」は一体何の意味を持っているのかということに関して解釈を進めたい。筆者が初めて読んだ時から、「お化け鯉」が喜一の戦争で亡くなった父の象徴であることは明らかだとの印象は現在まで続いている。喜一の父は物語に登場しないが、他にも戦争で戦った過去と家族を持っていて、最初の場面において死ぬ登場人物がいる。それに関して二瓶氏は、馬車曳きの男と喜一の父の共通な死に方に気づいている。

『...戦争で受けた傷がもとで死んでしまった喜一たちの父親が、生き残ってはまるですかみたいに死んでしまった一人であることは間違いのないことだ。彼の父は馬車曳きの男や晋平の戦友たちと重ねあわせている。』15

この共通の部分が「お化け鯉」の象徴的意味の解釈に肝心な所である。喜一が「うちにも来よった」と言った、馬車曳きの男は、喜一の父の身代わりとして犠牲となって、生と死の接点となる〈橋〉の境界を渡って、〈死〉の〈川〉にお化けの形で泳いでゆくとの解釈も考えられる。物語の冒頭に出てくる馬車曳きの男のすかみたいな死に方が、喜一の父の過去に起こった死を読者のために象徴的に表しているのではないだろうか。従って、戦没者である喜一の父は、身代わりの馬車曳き男が死んで間もなく「お化け鯉」の形で出現するのである。

付言すると、馬車曳きの男が亡くなって間もなく、「舟の家」と「お化け鯉」が登場するのは偶然とは言えないだろう。作者が、物語の背景及び喜一の父に関する情報を、徐々に途中から明らかにするため、繰り返し精読しない限り、この順序を見逃す恐れがある。「お化け鯉」は〈死〉を象徴している〈川〉で泳いでいるが、舟の家族の生活を見守っている。馬車に轢かれて死んだ男のような「すかみたいな死に方」を少し言い換えて、喜一の父も、無意味な形で戦争に轢かれて死んだといえば理解しやすいであろう。すなわち戦争は、兵士たちにとって、馬車のような凄まじい力を持っている。かつて日本もコントロールが出来た筈の太平洋戦争が、やがてコントロールできない状態になってしまった。その結果、沢山の兵士が日本の未来を開く筈の戦争に巻き込まれてしまって、無意味な形ですかみたいな死に方によって世を去った。馬車曳きの男が馬の代りにトラックを買おうと企んだことは、兵士たちが戦争から身を引いて、安定した生活を送ることと、似たような夢でもあったかもしれない。

作者にとって〈川〉が〈死〉の所であるならば、「お化け」が魚の形で現れてくるのは当然であろう。しかも、「鯉」であることは、親子関係において大切な、男の子の成長を象徴する〈鯉のぼり〉を連想させるのみならず、喜一の売春婦である母の夫との恋愛を意味する〈恋〉の「お化け」が舟を追っていることが興味深い象徴的可能性を開くのではないだろうか。この連想性

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に関して別の見方をすれば、可笑しな発想かもしれないが、「お化け鯉」ではなくて〈お化け〉が舟の後を泳ぐとすると、以上の通り、連想させるようなニュアンスを全く失うだろう。「お化け鯉」が〈宿命〉を意味する隠喩であるという二瓶氏の発言に賛同したとしても、家族の〈宿命〉を具体的にもたらした〈父の死〉という象徴的役割を見逃す限り、作品のメタファーを完全に理解したことにはならないような気がする。「お化け鯉」に関する先触れとなるものは馬車曳きの馬ではなく、馬車曳きの男自身であることはあらゆる点から明らかであり、さらに両方が喜一の父を象徴しているともいえよう。とりわけ喜一にとって、「お化け鯉」が重要な隠喩的役割をになっているに相違ないとすれば、他の解釈は考えにくい。

〈橋〉を文学的に活用するのに非常に上手な工夫が見られる。「お化け鯉」の隠喩は何と言っても作品におけるプロット展開のために不可欠な道具として用いられている。別稿では『道頓堀川』において〈橋〉の上から人生、時間などを洞察することが出来ることを強調したが、表2.に明らかなごとく、〈橋〉は『泥の河』においても〈川を眺める場所〉、〈クレアヴォヤンスを得る場所〉として精巧に機能している。「お化け鯉」を見る信雄と喜一が、必ず〈橋〉の上から〈お化け鯉現象〉を見るのは偶然ではないと考えられる。 「お化け鯉」が喜一の〈過去〉に起こった戦争で亡くなった父の象徴であるとすれば、『道頓堀川』と同様に、〈橋〉から人生の鏡である〈死の川〉を眺めると〈橋〉は神秘的効果によって、時間の次元を透視するような洞察力を与えて〈過去の父の肖像〉が現れるのも不思議ではない。作者にとっては〈橋〉が、生と死の交流点である、現在から過去、未来を洞察する場所として暗示されていることは『泥の河』においても分かるだろう。

 

A〈橋〉の象徴性:〈自由〉と〈宿命〉のパラドックス

信雄と板倉一家は、喜一と銀子と「普通の」子として向き合おうとするが、関係が深まるにつれて〈宿命〉の不思議な引力によって必然的に元の状態にされてしまう。「舟の家」の狭い世界に閉じ込められた喜一が、人生において自由を感じていないことは確かである。彼の母の商売ゆえに、信雄に出会うまで友達を得ることが殆どなかったというのが原因の一つであるが、彼は社会的にも見捨てられた浮浪者の存在といえる。「双子」に苛められたことがきっかけとなり、彼は自分より弱いものに対する残酷な行動によって自分を強く見せようとする。雛を潰し殺すことにより、喜一は自分の人生において何者かを自分の思い通りにしょうとしているのである。子供が動物、玩具に対する虐待を行うのは、大人の世界で感じる無力を振り払うためではないだろうか。浄正橋の天神さんの祭りで、信雄の父に渡されたお金をなくしたのも、そのもう一つの例である。

喜一のポケットに穴が空いていたことは、自分の人生をコントロール出来ないことの象徴で

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あり、ポケットの穴は松本一家の〈宿命〉に繋がる小さなシンボルであろう。その穴から信雄の父から貰ったお金が落ちたため、結局喜一は買いたかったロケットを盗んでしまう。価値のあるもの全部を逃してしまう〈宿命〉に支配されている喜一は、他人に貰ってなくしてしまった〈自由〉を、或いは本当は生まれて以来なかった自由を奪い取ろうとしている。結局、同年齢の信雄に叱られて舟の家に帰るが、その際に、反省した喜一は信雄に秘密を教えると言って、蟹に油をかけて燃やす場面が登場する。これも、恐らく喜一は再び動物である蟹の〈宿命〉を自分が決めることによって、信雄に自分の強さを印象づけ、彼との友情を確固たるものとして、永遠に自分の土地に留めたいからではないだろうか。しかし、逆に信雄はそのために喜一を嫌うことになるのである。

ところで、燃やされている蟹の状態は喜一自身の状態であることを作者が仄めかしていることが分かる。喜一も残酷な〈宿命〉のもとで燃えている蟹のように、自分の無力さと痛みゆえに苦しんでいるのである。信雄を友人として受け入れたため、自分の内面にあるこの〈秘密〉を知ってもらおうとするが、信雄の世界観は喜一のそれと全く異なるため、喜一の友情を拒絶して、〈渡し〉を逆戻りして「舟の家」を去ってしまうのである。信雄が喜一との関係を「舟の家」が既に出発した後で修復しようとする際に、信雄が本当の喜一を求めているのではないことは、喜一も知っているだろう。〈橋〉は同質の存在同士を結ぶこともあるが、この物語では異質の対岸、〈自由〉と〈宿命〉が両端に設定されている。喜一は信雄の友情によって自分の無力さを乗り越えて〈自由〉の側に渡りたがるが、彼自身において〈自由〉が欠けているからこそ問題が生じる。欲しがるものは既にないからこそ貰えないといった窮地に陥らせる規則、つまり〈自由〉と〈宿命〉のパラドックスが描かれているのである。

B〈橋〉の象徴性:異質なもの同士を結ぶ

以前にも触れたが、信雄が「舟の家」を覗くことと、二人の少年が「お化け鯉」を見つけることにより、〈橋〉は〈人生〉、〈死〉に関する〈クレアヴォヤンス〉を得る場所として利用されている。しかし、こういった神秘的洞察力を与える機能を現す〈橋〉は、『泥の河』における最も重要な役割というわけではない。最も肝心な点は〈橋〉が以前にも触れた通り異質を結ぶトポスとしての象徴であることだ。作中においては〈橋〉を渡る度に信雄(及び板倉一家)と喜一(及び松本一家)の間における親近感が縮小するのである。〈橋〉を渡ることにより断続性及び無関係性が、接続性と強固な関係へと変わる途中経過が隠喩的に記されているのである。『道頓堀川』の冒頭で邦彦が橋を渡ってくる竹内の姿を見る場面と同様に、信雄と喜一が初めて言葉を交わすシーンは馬車曳きの男が亡くなった場所である船津橋のたもとである。16〈橋〉は物語の最初から登場人物の間に現れる関係の徴候を示し、〈橋〉のあらゆる登場場面

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には注目すべき作者の隠喩的意向が暗示されている。信雄の両親が自分の家である「やなぎ食堂」に尋ねてきた松本家の子供たちを橋のたもとで、或いは橋を渡って見送ることを通しても、家族と家族という赤の他人同士が〈橋〉の異質な存在を結ぶ機能により、良好な関係へと変わって行く傾向が見られる。「舟の家」は「やなぎ食堂」から見えるのに、わざわざ家を出て板倉一家は端建蔵橋のたもとまで見送っている17ことは、喜一と銀子に対しての思いやりを〈橋〉のパラダイムによって表現している。同様に貞子が銀子を見送る際に橋を渡って『湊橋の近くまで』18連れて行くシーンも、この人間関係を深める機能という〈橋〉の象徴的意味を示すものである。

〈橋〉は同質のものを結ぶこともあるからこそ、異質のものも〈橋〉の接続性により結ばれ、そこに危険性が存在するのである。〈橋〉は一方通行ではない。片方だけが影響されるはずはなく、異質なものと繋がれることによって期待感と恐怖感の両方を覚えるのが当然な結果だろう。〈橋〉は現代社会では人間同士のコミュニケ−ションや和平を表す象徴として、しばしば政治的文脈で使用されるが、戦争においては橋を壊すのが自衛戦略の一つである場合も少なくない。相手が同質性を持っているゆえに〈橋〉の楽観的象徴性が理解出来るとすれば、逆に異質なものに対して恐怖を抱くことが、その〈橋〉を壊すきっかけとなるのも納得できるのではなかろうか。具体的にいえば、社会的地位、家族の経済的健全さ、モラルの点に関してであるが、この異質性は別形態でも表現されている。それは〈昼の世界〉と〈夜の世界〉といった分かりやすい対照的トポスである。二人の少年が浄正橋の天神さんの祭りに行く場面に見られる。〈昼の世界〉に属する信雄は、祭りを経由して初めて、喜一の『禁じられた』19〈夜の世界〉に入って行く。賑やかな祭りは〈夜の世界〉の入り口であり、入った途端に信雄が喜一の盗難を批判する。喜一が泣いて反省してから〈夜〉の「舟の家」に帰るのであるが、喜一の動物に対する残酷さを見た直後、松本一家の秘められた、喜一の母の商売を偶然に見てしまう。子供が性に対して感じる驚異と〈夜の世界〉において出会うとともに、そこで体験する松本一家の本質は喜一との関係の破綻に直接的に繋がる。〈夜の世界〉に入る玄関のような役割を果たしているのは〈橋〉における祭りである。少年たちは『堂島大橋』20を渡って、『浄正橋の天神さん』21の祭りに行くことにより〈昼の世界〉から〈夜の世界〉の境界を〈橋〉を通して越えているように思われる。

表3.に見られるごとく、〈橋〉に関連する場面では大人たちより子供の登場人物の方が多い。子供が〈橋〉と関わる場面は32回登場する一方で、大人が登場する回数はわずか13回である。しかも、大人の場合では馬車曳きの男がその半分ぐらいを占める。〈橋〉が強固な人間関係を表す象徴であることを認めるならば、信雄と喜一はお互いの友情に対する期待感で一致している傾向が表現されていることが分かる。長年の経験に根ざした悲観的考え方を持つ両家の親で

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あるから、大人たちは子供たちの間に出来たばかりの友情を疑問視してしまう。社会的地位と経済的状況が異なるため全く違う立場にいる両家であるが、段々と信雄と喜一の楽観的姿勢にのって、とりわけ板倉一家が象徴的な〈橋〉を渡る度に松本一家の方へと進んで行く。社会的地位は本当に子供の無邪気な世界観によって越えられるのか否かという点は板倉一家のかけ橋で表現されているが、結論として、「舟の家」においては一時的な「渡し」しかなかったため、子供たちも現実世界における破綻の辛さを味わって、大人たちのような悲観的態度に陥るといえる。

最後の場面であるが、母の勧めで信雄は「舟の家」をいくつもの〈橋〉を走り渡って追い掛けるが、彼と喜一との間の距離が友情の破綻に繋がったことにより、追い掛けても、追い掛けても、身体的にも、心理的にも追いつけないのである。信雄にとっては別れの挨拶が言えなかった程度の辛さを経験するのに過ぎないが、喜一にとっては信雄の声を疑って無視することにより、売春婦の母のように人生を諦めた態度と一体化する。喜一と信雄の関係の破綻が決定的に決まる際に、〈宿命〉を現す「お化け鯉」が再び登場するのは不思議ではないだろう。

 

〈舟〉の象徴性、〈浮世〉のパラダイム

冒頭直後に作者の設定に関する描写が安治川の汚れに対する発言の形で始まる。二つ目の文では以下のように描写されている。

『藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかにに流れる黄土色の川』22

川そのものの汚れのみならず、川の流れにごみが浮かんでいる数箇所のシーンが、反復されることによりこのテーマを強調している。喜一を苛めた「双子」の習慣は、川を流れて来るごみを舟に乗って拾って遊ぶことであり23、「舟の家」が登場するにつれて兄弟は喜一もその「漂流物」のような扱いをするのが松本一家の社会的地位の低さを表現している。喜一の母が売春婦であるので、家族はのけ者として大阪市の川の近辺を放浪することを強いられる。

『...喜一たち親子が川べりを何年も流浪してきたことを信雄は知る由もなかった。』24

以上の個所が松本家の不安定な生活を示す比喩であると同時に、最後に「舟の家」の悲しむべき退去の予兆としても機能している。

作中においては、喜一の信雄の「家」に対する羨望の念の吐露を通して、二人の家族の状況が対照的に描き分けられているのである。

『僕、のぶちゃんとこみたいな、普通の家に住みたいわ。』25

〈橋〉に込められた象徴的意味が〈接続〉或いは〈人間関係〉を表すとすれば、〈舟〉の意味は〈断続〉と〈もろい関係〉を表現できるだろう。喜一の存在は〈舟〉を基準とする不安定

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な生活であるため、信雄との友情を発達させるにつれて〈橋〉を渡って行くことから生まれる〈繋がり〉は空想的な、一時的な「渡し」のような繋がりになる。なぜなら母が窮余の策として、売春婦となり、それ故、船上生活を余儀なくされ、子供たちは学校に行けず、住所不定の、大阪市民として認められない状況が続いたことが理由としてあげることが出来るだろう。この極めて屈辱的な経験が重なるにつれて、橋の向こうにある強固な人間社会から完全に切り離された人々となる。松本家の他人との交流の乏しさは「舟の家」の形をとったシンボルによって表現されている。

信雄の思考を描写した箇所にも「舟の家」に対する彼の不安を読み取れる箇所がある。初めて「舟の家」を尋ねた後に自分の家に帰ってもなお『信雄の体はずっと揺れつづけていた』26 。物語の最後の信雄と喜一の別離の場面においても「舟の家」が揺れ続くのである。

『舟の家は臚の部分を右に左に頼りなげに揺すりながら、土佐堀川の真ん中を咳き込むようにして上がって行った。』27

「舟」が〈住居〉であることを認識する人々にとっては〈揺れ〉という現象はおそらく「舟の家」の弁別的特徴として、彼らの人生観を強烈に明示する。 以上に指摘した通り、〈揺れ〉が反復を通して強調されることによって、作者が「舟」の特殊性に対してどのような隠喩的意味を与えようとしているのかが明確化するのである。作中における隠喩的傾向の多義性に関してさらに付言すると、〈揺れ〉続ける「舟の家」が「廓舟」であることを充分に考慮した際には、作者はこの二つが関連するトポスを通して〈浮世〉というパラダイムを有効に機能させているといえる。そうであるならば、作者が〈浮世パラダイム〉を意図的に取り入れたとしても、意識の底から連想のパラダイムが単に浮上したとしても、日本文学の伝統的な〈浮世〉感覚が深味をもたらしていることは間違いない。

作者はこの小説で〈浮世〉という言葉を一度も用いていない。しかし、登場人物の内面と対応させられている舞台の共通点を分析すると、〈浮世〉という言葉が作品のあらゆるモチーフとなっている風景に合致していることが分かり、そこで言葉自体の意義を調べてみた。広辞苑では「浮世」という言葉を下記の通り定義している。

『うき-よ【憂き世・浮世】(仏教的な生活感情から出た「憂き世」と漢語「浮世(ふせい)」との混淆した語)@無常の世。生きることの苦しい世。伊勢「散ればこそいとど桜はめでたけれ―になにか久さしかるべき」。「つらく苦しい―」Aこの世の中。世間。人生。太平記一一「今は―の望みを捨てて」。「―の荒波にもまれる」B享楽の世界。恨之介「心の慰みは―ばかり」C近世、他の語に冠して、現代的・当世風・好色の意をあらわす。』28

『泥の河』という作品における象徴とトポスを分析してみると、驚くほどに、作品全体におけるモチーフが上記の定義と漏れなく合致していることが分かる。〈浮世〉の定義を利用して

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本稿を構成することは〈枠〉として利用するに従って、筆者の恣意によるものであることをご了承願いたい。ただし、象徴の解釈を徹底的に行うことが文学批評家に相応しい目標であるならば、その〈枠〉はこの作業において有効に機能すると考えられる。この枠を利用して、作者初期の作家としてのアイデンティティーに関する証拠として後で詳述する。それでは、広辞苑の定義の丸囲み数字で分類されていた内容に従って、『泥の河』に登場する〈舟〉の特徴と一つ一つ入念に関連させながら、解釈を行っていきたい。

 

@ 無常の世。生きることの苦しい世。

仏教の〈無常〉と舟の関係は、舟の流動性に端を発するのである。菊池良一は以下の通り述べている。

『無常には現象的事実の存在を肯定した現実の情念による悲歎がある。この情念はものの現実や存在を否定するものではない。むしろ現実肯定に連らなる心情である。無常の理念にはもう一つ別に、流動してやまざるものであるという真理において流動のままでされが存在するという形而上的思惟を形成する。もののさらに奥底にある無常の本質、すなわち遷流無常なるが故に永遠的なもの、普遍的なもの、絶対的なものの投影なのである。無常は現象の彼岸に形而上的な恒常を希求して生きる安心の世界である。』29

いうまでもないが、この仏教の基本を形成する「流動性」が様々な場合において〈舟〉の形で表現されている。仏教的概念に基いて、お経が一切終生を苦しみから開放し、その願いを叶えてくれることを、『渡りに舟に得たるがごとく』30表現しており、『ガンジス・インダス両河の本支流が網の目のように流れていて、しかも橋がほとんどないインドの北・中部...』31という描写を通して仏教が生まれた土地の風景も言反されている。この事実により、仏教においては〈橋〉の象徴的使用を避ける傾向が存在することは明瞭だろう。さらに付言すると「浄土」が「彼岸」にあるため、『煩悩の川を渡り越えて到達する』32と喩えられている。〈渡る〉ために必要となるのが「大乗」か、或いは「小乗」の「渡り舟」である。33仏教の教典における、〈舟〉を比喩的に用いる傾向に従って、所謂〈仏教文学〉では〈舟〉の隠喩が多く用いられていることも不思議ではない。例として以下の作品を取り上げよう。

『 入唐詩歌 智 証 大 師

のりの舟さして行く身ぞもろもろの神も仏もわれをみそなへ (一九二二)』34

源氏物語においても、登場人物の「浮舟」の仏教的解釈35は他の学者の研究によって明瞭となり、〈舟〉と〈浮世〉という共通な部分を持った概念にも大いに影響を及ぼしていると考えられるが、本稿は詳論する余地がない。いずれにせよ、古典における仏教の象徴である〈舟〉の揺れは、長い経緯の後に「浮世草子」(36)という十八、十七世紀の庶民向けの作品群に連なっ

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ている。歴史的には、主に井原西鶴の影響のもとに「浮世」に関連する作品は多く37、本稿が検討する分野は古典、近世日本文学ではなく、昭和文学の宮本輝であるため、概要だけに議論を限定する。「浮世草子」といった違った系列の文学と区別するために〈浮世パラダイム〉という「現代文学における、浮世の影響を受けているトポス」を表現する用語を利用したい。ともかく、「無常」という概念が「舟」の象徴を経由して〈浮世パラダイム」に生まれ変わることにより、無常という仏教的概念が現在においても、『泥の河』に使用されていることを主張したい。作者が〈浮世パラダイム〉を意図的に取り入れたのか、それとも意識の底に眠っていたこのトポスを単に使用しただけなのかに関する判断は保留したい。

二瓶氏の研究で明らかな通り、『泥の河』の改稿以前の作品である『舟の家』38と『泥の河』を比べると、作品の雰囲気とプロットに随分と大きな変化が見られる。例えば、『舟の家』においては、喜一の家族の住居である舟は、信雄の放火によって全焼し、喜一の母とお姉さんの銀子も焼死した上、喜一は孤児院へ送られる結末となっている。確かに、改稿後の結末の方が、現代の読者に対しては、話が完結したという印象を与えるだろうが、改稿前の方が『方丈記』のような〈無常〉を表しているのではないか。『方丈記』においては人生の流動性について以下の通り述べられている。

 

『行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世のなかにある、人と栖と、また、かくのごとし。』(39

明らかに、『泥の河』の冒頭と共通な点が多い。『方丈記』を読み進めると、住居の話において登場する焼失する家が、仏教の儚さを表現していることが分かる。

『玉敷の都のうちに、棟を並べ、瓦を争へる、高き、賎しき、人の住ひは、世世を経て、尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて、今年造れり。或は大家亡びて、小家となる。住む人も、これに同じ。所も変わらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかに一人・二人なり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。』(40

上記の『方丈記』の引用を見ると、「舟の家」という『仮の宿り』41が信雄の放火により焼失することが、「河の流れ」の「泡」のような〈無常〉を表現している。作者が意図的にこのような『方丈記』に見出せるニュアンスを取り入れたか否かに関する判断は保留するが、改稿前も、改稿後も、共に作品世界には〈無常〉が横溢している。

しかし、改稿後の内容が読者の期待を満足させるとはいうものの、満足感とは対照な無常感も読者に訴えかけてくるのである。放火事件がないために、物憂さが、無常感が、作品の結末を支配するだろう。とりわけこの「すかみたいな死に方」は『方丈記』の〈泡がごとく〉と同

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様に『泥の河』で繰り返される仏教的マントラとして読者に余韻を残す。売春婦の家族に対する放火事件で喜一の家族が焼死していたら、より社会が彼に下す評価は同時に現れるとの逆に、舟が何事もなかったかのように去って行くシーンがなくなるため、松本家に対する読者の哀れみの情よりは信雄に対する怒りの方がより存在感を持つことは間違いないだろう。孤独なのは、喜一のみではなく、信雄もそうではないだろうかと考えられる作者の意向が働いているだろう。この上、「舟の家」が最後の場面で揺れ続けて去ってゆくのも、仏教的概念である〈無常〉を表現することにより、物語の終末にも揺れる世界の儚さを保とうとしていると解釈できるのではないだろうか。

 

Aこの世の中。世間。人生。

ヒーローや悪人を期待するならば、『泥の河』を読む必要はない。この作品は一般人が人生に対してどのように取り組んでいるのかを描写するのみである。栗坪氏はこの点に関して以下のように述べている。

『宮本文学の主人公たちは、いずれも平凡なる普通の人々であり、しかもその基底には、普通の人々を侵し続ける〈生死〉の主題がうずいている。』42

作者が描写しているのは大阪市の当時の庶民であるからこそ、「浮世」の定義におけるA番目の条件が満たされている。読者は読む際に、普通の人が送っている人生の裏側に〈死〉或いは〈宿命〉の必然的な動きの中に宗教に近い魅力を感じ取る。〈自分の人生においても奥深い所がそうなのではないだろうか〉と作者が述べることにより教典の余韻が残る。人生を反映しない宗教に信者を期待できず、人生を反映しない文学にも読者を期待できない。宮本文学は実人生の様々な面を反映しているからこそ、とりわけ『泥の河』は読者に余韻が残る作品となっている。しかし、『舟の家』という改稿前の作品においてはどうであろう。この点に関しては二瓶氏がこう述べている。

『...『舟の家』から『泥の河』への書き換えは、主人公・信雄の異常な体験の世界から、彼の目に映った無名の、ごくありふれた人々の悲しい有様を描く作品への生み直し、再生ということになるだろうか。』43

確かに、作者が改稿しなかった場合における作品の基調音に関して考えると、信雄の放火行動によって、彼は人並み以下の人間となるといえよう。改稿によって〈浮世パラダイム〉の維持が、少なくとも望ましくない風情の克服に繋がるため、作品の改善を求めようとする意志を作者は期待していたに違いない。結論をいえば、改稿後の作品においては信雄が普通の人と変わらぬ人生を体験してゆく。

『...少年が成長してゆくことは間違いがなさそうなのだが、そこで見た怖いもの、醜い

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ものが、是非なくも悲しい生の現実であったことだけは明言しておかなければならないだろう。』44

宮本は成長過程を確実に描写するため、陰気な場面も省略せずに書く。死にゆく人も、〈宿命〉に支配される人も、表面的にはそうでない人も、皆、普通の人として描かれているのである。作中人物は〈死〉の川を洞察する際、人生が正確に、つまり現実そのままの形で川面に映されている。宮本作品において、多くは非常に哀れみ深い表現を伴っている。以下の通り、『蛍川』の支配的イメージを通して、宮本文学全体におけるノスタルジアを表現することができる。

『押し入れの中は真っ暗で黴臭かったがやけど、襖のあいだからちょっとだけ光が入ってきとった。』45

次に見られる宮本文学の親しみやすさを表現するムードがもたらす心理的効果のゆえに、『泥の河』の細部に至るまで現実を反映する描写は、作品に普遍性を与える。

 

B 享楽の世界。

「浮世草子」は井原西鶴の作品群の原点に位置していることを覚えておかなければならない。西鶴の作品の多くは、表面的には娯楽性に溢れる風俗小説の形式をとっているものの、仏教的教訓も包含している。樋口一葉が西鶴の影響を大いに受けたことは後に詳述するが、とりわけ享楽的世界を舞台にする一葉の傾向に関しては変化が見られない。しかし西鶴が主に大人の歓楽街を描写したのと対照的に、一葉の名作には子供の思いを記録する物語もある。『たけくらべ』においては美登利という女の子が自分の歓楽街に属するであろう未来を徐々に認識し始める。子供であると同時に、歓楽街との緊密な関係のため、美登利は性意識の芽生えが普段の子供より早く、青春を犠牲にする職業を避けられない自分の〈宿命〉の切なさを必然的に痛感する。『泥の河』においても同様なヒロインが描写されている。信雄はまだ小学生であるが、喜一の「舟の家」を尋ねたため、売春の世界に全く無意識的に飛び込むうちにそこと関与することになる。喜一の姉の銀子も子供であるが、それでも信雄は彼女に会って『あの母親とよく似た匂い』46を感知してしまう。銀子は母親が唯一の女性としての模範となる上、母と同様な未来が待っているのではないかと予期する。信雄がその「よく似た匂い」によって彼女の未来を予想することが、銀子には美登利と同様な〈宿命〉を描く両作者の類似する特徴を明かす上での証拠となる。これに関して二瓶氏は以下のように述べている。

『信雄が舟の家に行くのは、喜一との友情のためばかりではなかった。宮本輝は少年の〈性〉に蠱惑されてゆく幼い様相と、それへの怯えをも十分に書き込んでいたのである。』47

あくまでも、『泥の河』は大人ではなく、子供の物語を中心とする小説であるが、子供たちは大人の〈享楽的世界〉に両親との絆を通して結びついている。作者は動物の象徴を多く利用

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する中、「鳩の雛」が喜一の手に圧殺されるシーンがある一方で、一葉の『たけくらべ』の未定稿に『雛鶏』48という共通なイメージを持った名前を用いている。この点は影響の因果関係に関する好奇心を湧きたててしまう。実際の作者の発言によると、一葉から受けた直接的影響はあった。

『小説を読みふけりだして三作目に私は樋口一葉の「たけくらべ」と出逢ったのだが、同じ文庫本に所収されていた「にごりえ」のほうが、中学二年生の私には難解であったにもかかわらず、なぜか強く魅かれるものがあった。』49

この影響については、後に再び詳述するが、少なくとも舞台の選択が浮世の定義に合致していることは偶然の産物ではないことは明らかだろう。以上の通り『泥の河』においては〈浮世〉という言葉は一度も用いられていないが、一葉の作品を通して「浮世草子」の影響を間接的に受けているいえる。いずれにせよ、〈浮世パラダイム〉の機能によって、子供が〈宿命〉のテーマと必然的に直面することにより青春を失ってしまうことの儚さが表現されているといえよう。

作者は〈浮世パラダイム〉を用いることにより古風な風情を取り入れようとしているのではないだろうか。しかし、一葉の時代も、荷風の時代も、戦後も、作者が『泥の河』を書いた1970年代当時も、〈浮世パラダイム〉に関連する文学の歴史全体が、一体化された「舟の家」の象徴に託されていることによって、深味を全作品にもたらすのであろう。古風であると同時に、現代の読者にとって、時間を超える次元まで物語を運び、時間を超越するようなノスタルジアが読者の側に喚起されるのではないかと思う。

 

C 近世、他の語に冠して、現代的・当世風・好色の意をあらわす。

イギリスにおいては「New Bridge」という橋がテムズ川の上流にあるが、十五世紀に建築された古い橋である。50〈昔〉に建築された東京の「新橋」も、パリの「Pont Neuf」も〈新しい橋〉という意味を伴う名前をつけられている。いうまでもないが、時間が過ぎることにつれて、「新し」くあるべきという理想と「古い」という現実のギャップにより、意味の重複が起こる。「浮世」という言葉自体が現代人に対して非常に古い風情を連想させる表現ではないだろうか。仏教的な余韻がゆえに、「浮世絵」も連想させるかもしれないが、西鶴の「浮世草子」の時代においてはその作品が現代的なニュアンスを持っていたという点は二十一世紀直前の我々には信じがたい。西鶴の時代の「浮世」は〈現代〉を意味し、現代の「浮世」が〈昔〉を意味するといったニュアンスの重複を考慮すると、作品及び人生の儚さがまさに分かる。

『泥の河』も同様に時代設定に関して複雑な態度を採っているからこそ、作品が上記のC番の条件に合致していることが分かる。しかし、〈昔〉の物語に特有の象徴的風景があるといえ

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ども、現在性が作品中に溢れていることも確かである。この〈浮世パラダイム〉によって生み出される〈無常〉があるからこそ、現在性が蘇るのだろう。『泥の河』の複雑な時間構成に関して二瓶氏はこう述べている。

『結末を大きく改変したことにより、川は、時間は、一初年の特別な記憶として封印されることを拒否し、現在へとゆっくりと流れはじめた。『泥の河』はそのとき、数多くの無名な人々が「すかみたいな死に方」をし、埋もれていった時代、その歴史を描く物語に変貌する。』51

『泥の河』では〈昔〉=〈戦後〉という形の設定によって物語を現在形で描写すると同時に、近世の過ぎ去ったロマン的記憶を想起させる手法から、作者の執筆姿勢の鋭さ、或いは賢明さを読み取れるのではないだろうか。

 

古風かつ新たな〈川〉

『泥の河』は太宰治賞受賞作品であるにも関わらず、作者はとりわけ初期の作品に関して「古風」であるという批判に近い評価を受けた。とりわけ『蛍川』について、この点に関して作者自身はこう述べている。

『しかし、前作の「泥の河」どうよう、「蛍川」もまた地味で古風であると評される結果になり、私は稚拙な己れの人生観と文学観の二つのレンズで、再び「新しさ」ということを見つめなおすはめになりました。いったい新しさとは何なのか、文学の世界に限らず、現代に生きる人々が直後直面していくあらゆることがらにとって、これは重要なテーマかと思われます。そして芥川賞を頂戴し、もう一度「蛍川」を読み返してみて、これはこれでなかなか新しい小説ではないかと臆面もなく自惚れてしまいました。』52

インタビューにおいて作者は、自分の文学が『「古風の叙情派」』53と言及されたことに対しても不満を抱いた事実を明言している。上記のような批判は二つのレベルで宮本文学を懐疑的に眺めていると考えられる。一つは『泥の河』を含む作者の初期作品に新機軸に欠けているという批判である。二番目が古いパラダイムや伝統的テーマを利用することに関する批判である。この二番目の点に関して言えば、確かに物語の風景やテーマは、とりわけ初めて書いた作品に対しては適切と考えられる。しかし、伝統的テーマや設定を使用するが理由で作品が「古い」と批判されてよいのだろうか。愛川氏は以下の通り述べている。

『しかし、昨今、巷間に溢れている小説は本当に新しいのだろうか。思うに、その“新しさ”は題材にとった時代の“新しさ”であり、それは、とりもなおさず描かれた風俗の“新しさ”ということになりはしないか。』54

この見解は全く妥当である。

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普通の町と歓楽街の境界線にあたる地域で成長してゆく子供たちに関する物語は日本文学における新機軸ではないが、作者がその舞台にかつてない余韻の一貫性をもたらすことにより、トポスに潜在していた可能性が新鮮に蘇ってくる。〈浮世パラダイム〉の選択に応じて「浮世草子」に影響された作品群が関連する上、「舟の家」という設定の工夫においては、「浮世」自体を生み出した仏教的象徴である「舟」を関連させる歴史的余韻を通して非常に複雑な作品を書いた。しかし、その複雑な関連のバランスが取れた、無理のない形で描くことによって、傑作が生まれた。〈橋〉と〈舟〉の象徴的対立によって、〈人間の自由〉と〈宿命〉の逆説は、現代的感覚を読者にもたらすのである。西鶴も、一葉も、荷風も〈浮世世界〉を通して、〈宿命〉のテーマを探求したことはあるが、『泥の河』はそれ以前に書かれた作品群と根本的に異なることを詳述したい。

一葉の『たけくらべ』と荷風の『すみだ川』は「吉原」という東京の歓楽街を舞台とし、子供たちの成長過程を描写する。『泥の河』と『たけくらべ』が違う点は、〈川〉という舞台が登場しないことだ。一方、『すみだ川』においては、〈無常〉のテーマと〈川〉の舞台が『泥の河』と同じといえども、〈川〉及び〈橋〉の象徴的な活用の手法は全く違う。『すみだ川』においては、プロットの展開の場である〈川〉や〈橋〉は変わりゆく季節との関連によって〈無常〉を表現している。これを証明する二箇所は、以下の通りである。

『...朝早くの橋の白い霜を踏むのがいかにも辛く...』55

『お豊は今戸橋まで歩いて来て時節は今正に爛漫たる春の四月である事を始めて知った。』56

『蛍川』において宮本は季節の推移を描写するのに徹底的な工夫をしているが、『泥の河』は数週間という短期間における出来事が描かれているため、〈無常〉を〈川〉の周囲の季節によって表現するのは不可能である。〈川〉自体の象徴的意味を考えると、荷風の〈川〉は〈死〉の象徴ではないがゆえに、比較的に明るい風景を形作るのである。しかし、荷風は一葉の設定に、〈川〉を加え、そのことによって儚さという概念を新たな形につけ加えたとすれば、宮本の〈川〉に浮かぶ「舟の家」が文学史全体における仏教概念を開放した鍵となっているといえよう。

荷風の作品においては一葉の影響が大きかったと一般に考えられている。歓楽街という共通である舞台、同様な登場人物に関して、 柘植氏は以下の通り述べている。

『筋立ても、女たちの性格も、一葉作品から学んだことが明らかである。』57

『「里の今昔」によれば、かつて荷風は「たけくらべ」を愛読し、吉原通いの当初には、あたりの風物を「たけくらべ」の文章と比較するのを楽しみにしていたという。』58

表面的には一葉の『にごりえ』が荷風の『濁りそめ』、『たけくらべ』が荷風の『腕くらべ』に影響を及ぼしたと見られる。作品の内容においても、一葉の荷風に対する影響力は強かった。

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『...樋口一葉の「にごりえ」と「たけくらべ」の模倣と見られる。芸者になりたくてなった小糸という娘が、はじめて客を取られされ...』59。

一葉の影響を考えると、ある意味では、宮本と同様に荷風も「古風の叙情派」と表現することも誤りではないだろう。

しかし一葉からテーマ、舞台、作品名まで借用した事実に関して、荷風を責めてはいけないその理由は、事実上、一葉自身も舞台とテーマは西鶴の影響を受け、『たけくらべ』という作品名も古典的ニュアンスを作品に加えるために用いていると、キーン氏は以下の通り述べているからである。

『「たけくらべ」という題名は伊勢物語の場面から取られたもので、その場面においてある若い男女の二人が子供のころにお互いの背の高さを井筒に印をつけて比較していたのを思い出している。この題名の借用によって一葉の、その借用がなされていないならば現実的な現代社会を描いた物語に、優雅さを加えようとする意向がさらに明らかなものになる。

一葉が初めて西鶴を読んだのは1894年のことで、「たけくらべ」の全体についていえることであるが、特に写実的箇所においてはスタイルが、西鶴の作品を連想させるのである。一葉が西鶴をモデルとして選んだ理由は、彼女がスタイルに憧れたことのみならず、物語に描かれている事件が吉原の長い文学的歴史を連想させることにより、深味を物語にもたらすような効果を期待したからだろう。』60

西鶴の「浮世草子」から刺激を受け、一葉は吉原の長い文学的伝統を読者に連想させるために〈浮世パラダイム〉を利用した。しかし何故利用したかを考えれば、当時の女性たちは文学を研究したり作品を出版したりする機会が少なかったため、西鶴などを勉強することによってのみ『たけくらべ』のような作品を奇跡的に執筆できたといえる。彼女の驚異的才能に関して平田禿木は以下の通り述べている。

『源氏、西鶴など國文学の素養より一歩も出でざる女史にして、西欧の詩歌文芸に思ひさま浸つてゐた我々と、斯く互ひに解しあひ、同じ歩みを辿って行かれたのは眞に偉としなければならない。』61

とはいうものの、西鶴の容易に予測出来る作品の終末や平板的登場人物のメロドラマ的描写などと比較すれば、作品の風景も登場人物も全く異なる様相を帯びていることになる。西鶴の影響の大きさを認めた上でも、一葉自身の短い生涯における誰も予想しなかった文筆家としての発展によって女性文学に革命的役割を果たしたといえる。 一葉が執筆した人生の暗部の描写を省略しない現実的作品は、同時代のアメリカの女流作家が残した作品の楽観的傾向より深味があり、代表作のLittle Womenを書いたLouisa May Alcottと比肩しうるソフィスティケーションを一葉が示す62と主張するキーン氏は一葉の作品の社会的反映に関してこう述べている。

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『西鶴は男性の要求を満足させるために女性が自分の身体を商売道具にする行動のモラルに関して疑いを持っていなかったが、一葉は吉原を閉鎖する運動に推進したことがないといえども、観察に基づく冷静な記録により、水商売の世界の中で育てられている哀れむべき子供たちに視線を向けたのである。』63

西洋文学は一葉が生きていた当時、女性が勉強することは相応しくないと見なされたことは〈浮世パラダイム〉に再生をもたらしたといえ、それが現在に至るまで利用されているということは正しく一葉の才能を現しているのではないだろうか。

宮本氏がこの長期にわたる文学的に伝統に貢献していることは、本稿において証明しえた筈であるが、一葉の宮本氏との直接的影響はあったとしても、どのぐらいの影響を及ぼしているのだろうか。作者自身の少年時代に彼が素材を見出した点に関しては疑問の余地がない。しかし、一葉も、荷風も同様な姿勢を示したこともある。〈川〉が舞台となっている〈無常〉のテーマに、荷風の『すみだ川』という作品名もその内容も共に多少類似しているが、共通点があるという事実だけでは、影響を受けたことを証明することにはならない。荷風が受けた影響に関して筆者は分からないが、少なくとも二人が共に一葉の影響を受けていることが共通項となっている。

芸術作品においては象徴が意識的、或いは無意識的な影響を及ぼす事実に関して心理学者のユングはこう述べている。

『そのことがらは生じたが、われわれの意識によって知られることなく、潜在意識的に吸収されたのである。われわれはそのようなことがらを認知するのは、直感による場合か、深い思索の過程において、それが生じたことを後になって了解する場は無視しているが、後になってから一種の追想のように、それが無意識から湧きあがってくるのである。』64

作者が意図的に、或いは無意識的に〈浮世パラダイム〉を「舟の家」として表現したか否かに関係なく、舞台と内容がパラダイムと合致することにより、〈浮世パラダイム〉に属する作品であることを否定出来ないと結論づけることができる。

映画の到来以後の小説は史上の文学とどのように関われば良いのだろうか。ポスト・モダンとディコンストラクションの時代においては、小説を書くのが非常に困難である。伝統的傾向に従うか、それとも前人未踏の領域を開拓するかという選択は小説家の誰もが直面しなけばならない重要な課題である。自分の進むべき方向性を決めるのは勿論のことであるが、読者の意見と、批評家の意見と共に、本を売るための戦略までも考えないといけない。自分なりのポリシーに従っても、商業主義を重視する姿勢をとっても、作家が成功する保証はない。しかし、小説家が直面するこのような理想を左右する選択はつい最近始まったということでは決してない。一葉の日記を見ると、理想の高い彼女でさえ同じことに関して、先輩の半井桃水との会話

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に触れて以下の通り述べている。

『おもむろに当時の小説のさまなど物語り聞し給ひて我思ふに叶ふべきは人好まず 人このまなば世にもて遊ばれず 日本の読者の眼の幼ちなる 新聞の小説といわば有ふれたる奸臣賊子の傳或は奸婦いん女の事跡のようの事をつづらざれば世にうれざるをいかにせん 我今著す幾多の小説いつも我心に屑しとしてかきたる物はあらざる也 されば世の学者といわれ職者の名ある人々には非難攻撃面ても向ヶかたけれといかにせん 我は名誉の為著作するにあらず 弟妹父母に衣食させんが故也 其父母弟妹の為に受くるや非難もとより辞せざるのミ もし時ありて我れわが心を持て小説をあらはすの日あらんか 甘んじて其非難は受ざる也との給ひ終つて大笑し給ふさま誠にさこそと思はれ侍れ』65

『たけくらべ』を書いた時分に一葉は、純文学としての作品と、大衆受けする商業的側面を重視した作品のどちらを目指したのだろうか。彼女の文学に関する高い理想や古典を中心とした教養と、その当時の彼女の困難な経済的状況を照合すれば、両方ともが作品に影響を及ぼしていると思われる。

一葉、荷風共に、文学史からテーマ、舞台、作品名を借用して、彼らを「古風の叙情派」と類別するのは容易なことだ。しかし彼らの作品は新機軸を伴い、執筆当時の時勢を反映し、それらの点で優れているからこそ高く評価され、文学史に名を残るのである。宮本氏も同様に様々な文学的伝統を反映した舞台を戦後日本の文学界にもたらすことにより、西洋文学とは違う日本文学独自の伝統を再生したのは重要な文化的貢献といえるだろう。〈浮世パラダイム〉の歴史は長いからこそ、今後新しく登場する小説家は、『泥の河』で宮本氏が示した執筆態度を効果的に利用した作品を二十一世紀において書くことが望ましいと思う。このトポスはまだ使い古されたということがないのみならず、新しい作品と比較することによって宮本輝の『泥の河』における解釈はまさにより明瞭になるではないかと筆者は考える。 

まとめ

本稿は広辞苑に見られる〈浮世〉の定義のもとで、一葉又は荷風の作品と比較することにより、『泥の河』における古典的雰囲気は作者が意識的に創作したことを証明することを目的としていたが、その目的が達成できたか否かに関する判断は本稿の読者のみが下す権利があるように思われる。結局、その定義自体が単に便宣上のものであって、絵を囲む枠のように、同じ作品を新たなる視点から見られるように、筆者なりに出来るだけの工夫を行った。筆者自身の見解を述べると『泥の河』という作品において、日本文学の伝統を多大に反映する形で、作者は無常というテーマを極めて現代的な手法で取り扱っているのではないかと思う。作品の全体的バランスを保つ一方で、〈浮世〉というパラダイムを、改稿以前と異なった無理のない形で

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戦後の混乱期を背景とする形で描き出せたことは賞賛すべきことである。〈橋〉、〈川〉、〈舟〉といった事物に象徴的役割を担わせたからこそ、〈川三部作〉の中で『泥の河』が最も余韻を残す作品となったのだろう。

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English Abstract

This essay will examine the symbolic use of boats and bridges and their metaphorical opposition in Miyamoto's Doro no Kawa. The author will attempt to show that in the context of the work, bridges are used as an interface between differing worlds, while boats act as concrete representations of the "floating world" paradigm, a setting that recalls long traditions in Japanese literature and adds historical resonance to a modern story. The metaphorical opposition occurs as a contrast is created between the "connectedness" and "continuity" in the realm of bridges and the "disconnectedness" and "discontinuity" in the realm of boats. In detailing the lives of children associated with the post-war "pleasure quarters" as they confront their individual fates, Miyamoto revitalizes atmosphere and circumstances previously encountered in Ichiyo's Takekurabe and Kafu's Sumidagawa, among others. These works, in turn, were links in a long chain of Japanese fiction utilizing the "floating world" of the licensed quarter for literary purposes. This enquiry into metaphor, and specifically into the symbolic use of bridges, is a continuation and expansion of a previous paper entitled Clairvoyance in Miyamoto's Dotomborigawa: Viewing Life from a Bridge.

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1 1998年現在では阪神高速3号線がその二つの橋の真上に設置されている。

2 二瓶浩明「宮本輝 流れる〈川〉と澱む〈川〉――『泥の河』『蛍川』『道頓堀川』の改稿に

ついて」:『解釈学』 1(1989・6)67頁。

3 宮本輝『メイン・テーマ』(文芸春秋、1990)164頁。

4 二瓶浩明「宮本輝『泥の河』補遺」:『愛知県立芸術大学紀要』23(1994・3)15頁。

5 二瓶浩明 「宮本輝と〈川〉:『泥の河』『蛍川』『道頓堀川』」『解釈』(1985・10)

48頁。

6 二瓶浩明「宮本輝 流れる〈川〉と澱む〈川〉――『泥の河』『蛍川』『道頓堀川』の改稿について」:『解釈学』 1(1989・6)67頁。

7 二瓶浩明「宮本輝と〈川〉:『泥の河』『蛍川』『道頓堀川』」『解釈』(1985・10)48頁。

8 宮本輝『蛍川・泥の河』(1994、新潮文庫)64頁。

9 同書、26頁。

10 表1.は宮本の「橋」という言葉の使い方に焦点をあてている。ただし、「渡し」という言葉は〈橋〉の代りに使われていることに、「渡し」という表現を含むが、「橋げた」等は含まないことにする。

11 宮本輝『蛍川・泥の河』(1994、新潮文庫)18頁。

12 同書、19頁。

13 同書、35頁。

14 同書、39頁。

15 二瓶浩明「宮本輝『泥の河』補遺」:『愛知県立芸術大学紀要』23(1994・3)17頁。

16 宮本輝『蛍川・泥の河』(1994、新潮文庫)18頁。

17 同書、54頁。

18 同書、65頁。

19 愛川弘文「物語作家としての宮本輝:――『泥の河』を中心として――」:『昭和文学研究』15(1987・11)47頁。

20 宮本輝『蛍川・泥の河』(1994、新潮文庫)73頁。

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21 同書、72頁。

22 同書、9頁。

23 同書、26頁。

24 同書、65頁。

25 同書、64頁。

26 同書、34頁。

27 同書、89頁。

28 新村出、編者『広辞苑、第四版』(岩波書店、1997)215頁。

29 菊池良一「仏教文学の形成――中世に焦点をあてて――」『佛教文学研究(十二)』(法蔵館、1972)102頁。

30 山下民城偏『暮らしに生きる仏教語辞典』(国書刊行会、1993)440頁。

31 同書、440頁。

32 同書、371頁。

33 ひろさちや『仏教とキリスト教――どう違うか50のQ&A――』(新潮社、1986)26頁。

34 井手恒雄「仏教文学とそうでないもの」『佛教文学研究(十二)』(法蔵館、1972)57頁。

35 広川勝美「浮舟再生と横川の僧都」『佛教文学研究(四)』(法蔵館、1972)33−62頁。

36 岩波講座『日本文学史:第9巻・十八世紀の文学』(岩波書店、1996)240頁。

37 日本史広辞典委員会『日本史広辞典』(山川出版社、1997)204頁。

38 二瓶浩明「宮本輝 流れる〈川〉と澱む〈川〉――『泥の河』『蛍川』『道頓堀川』の改稿について」:『解釈学』 1(1989・6)54頁。

39 簗瀬一雄『方丈記全注釈』(角川書店、1971)13頁。

40 同書、20-21頁。

41 同書、28頁。

42 栗坪良樹、「宮本輝・生と死の物語:〈川三部作〉の成立について」『青山学院女子短期大学紀要』(1987)71頁。

43 二瓶浩明「宮本輝 流れる〈川〉と澱む〈川〉――『泥の河』『蛍川』『道頓堀川』の改稿について」:『解釈学』 1(1989・6)53頁。

44 二瓶浩明「宮本輝『泥の河』補遺」:『愛知県立芸術大学紀要』23(1994・3)17頁。

45 宮本輝『蛍川・泥の河』(1994、新潮文庫)107頁。

46 同書、72頁。

47 二瓶浩明「宮本輝 流れる〈川〉と澱む〈川〉――『泥の河』『蛍川』『道頓堀川』の改稿について」:『解釈学』 1(1989・6)55頁。

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48 塩田良平『樋口一葉研究〈増補改訂版〉』(中央公論社、1956)627頁。

49 宮本輝『本をつんだ小舟』(文芸春秋、1995)268頁。

50 相原幸一『テムズ川――その歴史と文化』(研究社出版株式会社、1989)34頁。

51 二瓶浩明「宮本輝 流れる〈川〉と澱む〈川〉――『泥の河』『蛍川』『道頓堀川』の改稿について」:『解釈学』 1(1989・6)54頁。

52 宮本輝「受賞のことば」『文芸春秋』第五十六巻、第三号(1978・3)369頁。

53 宮本輝『メイン・テーマ』(文芸春秋、1990)12頁。

54 愛川弘文「物語作家としての宮本輝:――『泥の河』を中心として――」:『昭和文学研究』15(1987・11)44頁。

55 日本近代文学界体系、第29巻 『永井荷風集』角川書店(1970)164頁。

56 同書、176頁。

57 柘植光彦「荷風文学の源流――柳浪・一葉・葵山を中心に」:『永井荷風の文学』桜楓社

(1973)24頁。

58 同書、24頁。

59 同書、24頁。

60 Keene, Donald. Dawn to the West. Henry Holt and Company, Inc., New York: 1984,

p.179.

"The title "Takekurabe" (literally "Comparing Heights") was borrowed from the passage in Tales of Ise in which a young man and woman recall childhood days when they compared their heights against a well curb -another indication of Ichiyo's desire to impart elegance to an otherwise realistic, contemporary story.

The style of "Growing Up" is reminiscent of Saikaku's, whose works Ichiyo first read in 1894, especially in the descriptive passages. She chose Saikaku not only because she admired his style, but because she wished to give her story greater depth by associating its incidents with the long traditions of the literature of the licensed quarters."

61 塩田良平『樋口一葉研究〈増補改訂版〉』中央公論社(1956)564頁。

62 Keene, Donald. Dawn to the West. Henry Holt and Company, Inc., New York: 1984, p.181.

63 Keene, p.179.

"Saikaku never suggested any doubts about the propriety of women selling their bodies to satisfy the appetites of men, but Ichiyo, even though she never advocated closing the Yoshiwara quarter, saw the pity of the children growing up in that world, and she recorded her observations without

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sentimentality."

64 C.G. Jung 『人間と象徴:無意識の世界、上』河合隼雄監訳(河出書房新社、1975)22頁。

65 塩田良平、他『樋口一葉全集:第三卷(上)』筑摩書房(1976)21頁。